宇宙の時間を極限まで遡っていくと,宇宙はどんどん小さくなり,いずれは古 典的な描像が描けなくなる.そのような宇宙では一般相対性理論は適用できな くなり,宇宙が量子的に振る舞うようになるであろう.だが,我々はそのよう な宇宙の状態についての完成された物理理論を手にしておらず,実際のところ, このような宇宙の状態については,ほとんどなにもわかっていないと言える. だが,この問題は宇宙の創世にかかわる,究極の宇宙論的問題であり,なんと か解決の糸口を見つけたいと思うのが人情であろう.問題はたいへん難しく, 現状で信頼に足る理論はないのであるが,ここでは,この困難な問題に対する いくつかのアイディアを紹介することにしよう.
まず,一般相対性理論が成り立たなくなる時間を見積もってみよう.宇宙初期
のフリードマン方程式
を考えると,
より,
となる.また,ハッブル半径内のエネルギー
は
である.これが不確定性関係
を満たす条件から,次のプランク時間
以下では,重力場を量子化しようとしたときにどのような困難が現れてくるの
かを具体的に見るため、すこしくわしく重力場の量子化を考えてみる.係数の
煩わしさを避けるため,ここでは特に断らない限り
となる自然単位系を用いる.通常の正準量子化の手続きに従って,一般相対性
理論を量子化することを考えてみよう.そのためにまず,一般相対性理論を正
準形式で書き下し,ここからシュレーディンガー方程式をつくって量子化すれ
ばよいと考えられる.
このため付録B.2.11の重力場の正準形式を用いる.これにより通常
の量子化の手続きに従って系を量子化してみよう.量子論では正準変数は演算
子となり,次の同時刻交換関係が設定される:
ここで,具体的な演算子の表示としてシュレーディンガー表示
残った条件(5.4.60)が状態ベクトル
を具体的に規定する方程式
であり,それは汎関数微分方程式
いちおう,量子化された重力場を記述すると思われる方程式が得られるが、こ
の方程式には問題点が山積している.まず,方程式が無限自由度をもつので複
雑すぎて一般的に解くことが不可能である.また,すぐ上に述べた演算子順序
をどう取ればよいのかわからない.さらに,このホイーラー・ドウィット方程
式は双曲型に対応する微分方程式であることが大きな問題である.この場合,
クラインゴルドン方程式などと同様に,波動関数から保存する確率密度を定義
することができなくなるため,波動関数の物理的意味付けができない.また,
上でくわしく見たように,ハミルトニアンが拘束条件のみで書かれてしまって
いる.これは量子系において奇妙なことになる.なぜなら,任意の物理量を表
す演算子
の期待値は,物理的状態空間
に属する
状態ベクトルについて
そもそも,宇宙全体を量子化した場合,波動関数の物理的意味はまったく不明 である.通常の量子系では,波動関数は確率解釈によって観測量と結び付いて いるのだが,いまの場合,確率解釈が意味をなさない.確率解釈とは,系を何 度も観測してみたときに得られる観測値の確率を,波動関数と結び付けるもの である.これは,系と観測者が明確に分離しているときにしか適用できない. ところが,観測者の住んでいる宇宙はひとつしかなく,観測者自身も宇宙の一 部であるため,このような解釈はまったくできなくなる.
上に見たように,正準量子化はあまりうまく行かないように見える.量子化の 方法は一通りではなく,他の量子化法の一つとしてファインマンによる経路積 分量子化がある.ここでは重力場を経路積分による量子化取り扱いを紹介する.
2つの空間的な3次元面
,
を考え、その上の3次元計
量をそれぞれ
,
とする.すると,経路積分によりこの2
つの面の間の遷移振幅は
式(5.4.70)はその定義から,ラプス変数
に依存していない.このこ
とは次を意味する.
量子論において波動関数の内積は重要な役割を果たす.経路積分表示
(5.4.70)を用いると波動関数の内積が簡単に定義できる.2つの状態
さて,一般に場の理論における経路積分を収束させるためには時間変数のウィッ ク回転
上で述べたように経路積分により波動関数を定めるには積分について,初期条 件あるいは境界条件に対応する何か付加条件が必要であるが,どのようなもの を取ればよいのか明らかではない.ハートル(Hartle)とホーキング(Hawking) は,宇宙の波動関数を得るためにはユークリッド化された経路積分 (5.4.80)においてコンパクトな幾何をもつ計量についてのみ和をとるこ とが,宇宙の基底状態の波動関数を与えるのではないか,という提案を行った. コンパクトな幾何とは簡単に言えば有限で特異点の存在しないようなものであ る.このようにして境界条件を固定して得られる波動関数をハートル・ホーキ ング型の波動関数という.この処方によると3次元体積がゼロになるような状 態に対しても波動関数が存在しうる.また宇宙の始まりに特異点の存在しない ようなもので,すっきりした描像となっている.この処方の正当性は全く明ら かではないが,一つの考え方としてよく調べられるものである.
ここまで見てきたように量子重力には概念的なところからさまざまな困難が存 在する.だが,かなり簡単化したモデルを使って宇宙の創世がどのようなもの であったかを多少なりとも垣間見ようとする研究が行われてきた.このような 研究の分野は量子宇宙論(quantum cosmology)と呼ばれている.例えば, 時空の無限の自由度を扱うかわりに,一様等方時空の計量のみにはじめから制 限すると,スケール因子のみの1自由度になる.するとホイーラー・ドウィッ ト方程式は単なる1自由度の量子力学系になり,扱いやすくなる.そうしても 量子重力のもともと抱えている問題はなくなるわけではないが,問題を単純化 して考えることができるようになる.そのようにして,ビレンキンによる「無」 からの宇宙創世論,また上でも述べたハートル・ホーキングによる境界のない 境界条件による宇宙創世論,などが提案されてきている.だが,矛盾のない量 子重力理論があるのかどうかもわからない現状では,これらの議論をどの程度 まじめにとらえていいのかは,全く不明である.
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