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空と物理学について、その2

マッドサイエンティストへ近づくのを恐れず、再び「空(くう)」と物理 学について考えてみよう。

「空」とは般若心経に語られている概念で、この世の中には我々が実体的 だと思っているものは存在しないのであった。まわりに見えている物や出来事 は人間の認識作用から出てくる幻想である。人間の認識作用を離れて物が存在 したり、出来事が起こったりしているわけではない、というのがエッセンスで ある。

ニュートン以来の古典力学に始まる伝統的な物理学の手法では、自然現象 に対する人間の精神の作用は全く排除されてしまっている。人間が観測してい ようがしていまいが、自然現象は存在しているということが前提になっている。 これは、その後の近代物理学の発展により、その正当性に疑問が投げかけられ た。相対論の登場により、時空の存在がそれまで単純に考えられていたような どこでも普遍なものなのではなく、観測者によって変化するようなものである ことがわかった。また、量子論では、どういう観測をするかということが実は その観測対象の状態と不可分ではない、ということが判明した。いずれの場合 も観測者を無視して物理現象は記述できないのであり、これは空の概念を示唆 しているというのが前回の論考である(空と物理学につ いて)。

しかしながら、相対論も量子論も、またそこから発展した場の理論なども、 定式化という面では伝統的な物理学にのっとっていて、ある初期条件の下の微 分方程式の解として世界が記述されるという点ではニュートン力学的なものか ら大きくはみ出すものではない。相対論では観測者の存在する場所や運動状態、 はたまた時空自身の運動を取り込んで方程式を一般化しただけであり、古典力 学の延長線上にある。量子論も成立過程ではかなり深くその哲学的な意味が取 り沙汰されたが、そのような意味の追求には実際的なメリットがないため、次 第にあまり議論されなくなり、今では意味はよくわからないが実際の物理現象 を説明するプラグマティックな道具として使われている。そのように量子論を 眺めると、手法としては単に伝統的な波動方程式を解いているだけである。場 の量子論も手法は複雑ではあるが、基本的には量子論と同じである。

このような事情もあり、現代物理学の定式化の中では、物理法則に人間の 認識作用があからさまに入り込んではいないのである。量子論においてそれを 示唆する部分は「観測問題」という名の下に封 印し、意味のよくわからない確率解釈というものを持ち出して理論の使用上に は差し支えなくなっている。また、相対論では観測者の運動状態に応じて時空 の変換法則は基本法則として与えられ、たとえば、なぜ真空中の光の速度が一 定でなければならないか、という問いは運動方程式がなぜそのようなものでな ければならないか、という問いと同様、その理論の枠内では答えられるもので はなく、経験則に基づくとしかいいようがないのである。

こう書いてくるとなにやら、現代物理学が頼りなく見えてくるが、じつは、 物理学理論の意味を考え始めるとどうもすっきりしないものが残るのはいまに 始まったことではなく、ニュートン力学以来の宿命である。つまり、物理学は 豊富な現象をより少ない原理によって説明するというものであり、原理そのも のは説明されないのである。ニュートンの運動方程式がなぜ成り立っているか とか、マックスウェル方程式がなぜ成り立っているかとかは、理論それ自身が 解き明かすべき問題ではない。そのような基本的な問題はそれらの理論を含有 するより進んだ一般性のある理論によりおぼろげながらわかってくることに期 待するほかない。

相対論も量子論も、なにやら人間の認識作用が自然法則と密接に絡んでい るらしいという示唆を与えるものの、巧みな定式化により、その基本法則へは 人間の精神のような因子はやはり入り込んできていないのである。つまり、物 理学者が研究上の問題を解くために量子論なり相対論なりを用いるときには、 人間の認識作用というものを全く考えずに計算して正しい答えを得ているので ある。

このような方法は今までのところ恐ろしいまでにうまくいっている。量子 論はミクロの物質の振る舞いの理論としては完璧である。場の量子論に基づく 素粒子の標準模型は実験結果を完全に説明する。相対論は宇宙の現象を非常に よく説明する。ところが、これらの理論は一つ一つはうまくいっているが、全 体としてみるとつぎはぎだらけで、まことに見苦しい。さらに相対論と量子論 は決定的に矛盾していることすら明らかになっている。この状況は理論物理学 者を統一理論の構築へと向かわせた。素粒子理論において電磁気力と弱い力を 統一する理論ができることがわかってから、さらに強い力を統一し、いずれは 重力をも統一した完全な理論、すべてを説明する理論が夢見られているのであ る。

私の考えは、この方向での研究は早晩いきづまるのではないかということ である。もちろんこれは確証のある意見ではなく、その方向の研究を極限まで 推し進めてみることに価値はあるだろう。だが、現代物理学では人間の認識作 用は便宜的に無視されているのであり、これを無視しつづける限り、真の意味 での「すべての理論」からは程遠いものになっていくのではないだろうか。と くに相対論と量子論の相性の悪さは単に技術的なものではなく、かなり根が深 い。素粒子理論で統一理論がうまくいったからといって、その方向で重力も統 一できると思うのはあまりに楽観的に映るのである。

人間原理の議論に表れているように、この宇 宙はあまりに人間の存在に都合よくできすぎているというミステリアスな事実 がある。さまざまな物理定数、基本粒子の性質、宇宙の初期条件から空間の次 元にいたるまで、この宇宙での値からわずかでもずれていればいまの人間の存 在できる条件を満たさない。統一理論のめざすところは、この宇宙の条件まで 含めて理論的に単純な原理からすべてを導き出すことにあるが、人間の精神や 認識作用を理論から排除したまま、自動的にわざわざ人間の存在できるきわめ て特殊な宇宙の条件を満たすのにはかなり無理があると思われる。私は逆に、 人間に見えている宇宙の姿が人間の認識作用を積極的に含んでいることこそ、 この宇宙が人間の存在を許すものでなければならない理由となり得ると考えて いる。

人間の見ている世界は世界のすべてではない。 端的に言えば、単に五感か ら送られてきた信号を脳のなかで再構成しているに過ぎない。そうやって脳で 再構成された世界の姿がどうしてもとの世界と全く同じ物であるといえるだろ うか? おそらく、かなり違ったものであろう、というのが私の考えである。 脳で再構成された世界は人間に理解のできる意味を持った世界として構成され ねばならない。そのような制限があるために真の宇宙の姿からはかなり変形さ れた世界が我々に映っていると考えるのも自然であろう。物質の運動法則、3 次元の空間、時間の流れ、はたまた時空のゆがみにいたるまで、人間の脳のな かで構成されたものである。これらは宇宙の真の姿ではなく、本来は似ても似 つかないものを脳が情報として切り取って認識しているだけではなかろうか? つまり、そもそも、 物質、空間、時間というものは存 在せず、認識されている宇宙とは全く異なったもっと巨大な宇宙の一部が 人間の脳と相互作用して幻想を生み出しているということになる。人類がこれ まで発見してきた物理法則は、もともとの宇宙の中に含まれているごく一部の 性質が、人間の認識作用による幻想として現れ、その幻想の間に横たわる性質 を表面的に表しているだけのものということになる。

つまり、やっぱり、「空」なのである。とはいえ、そうだとしても幻想を 生み出す素地は人間に認識できる現象に反映されているわけであり、より本質 的な宇宙の姿を垣間見る手がかりがないわけではないということを期待したい ものである。

2000年5月7日


Takahiko Matsubara
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