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時間および空間について

聖アウグスティヌスは「時間について聞かれなければそれが何かわかっている。 時間が何なのか聞かれたとたんにわからなくなる。」といったが、時間とは何 か、というのは難しい問題である。時間の進むスピードが1秒あたり1秒であ る、ということの他に何がわかっているのだろうか。そもそも時間や空間とい うものは測定できるようなものではない。時間の長さや、空間の距離というも のはその中で起こる事象との関係にのみ意味があるのであって、物理学的記述 では基本的にはパラメータ変数である。一般相対論では時空間も物理量として 扱われるが、理論形式がそうなっているからといって、観測可能量でないこと にはかわりはない。そもそも一般相対論は観測可能かどうかに関わらずすべて の量は存在しているという前提のもとに組み立てられている。ところが、量子 論を考えてみると、ある量が観測可能かそうでないかは、その存在自身に関わ る重大な意味を持っている。現在の量子論では時間や空間は事象を表すパラメー タとしての役割しか果たしていないので、当然ながら、一般相対論と相容れな い。そうすると、一般相対論は何かもっと基本的な法則の現象論的記述ではな いかとも思えてくる。

時間や空間はわれわれが感じているような方法で存在するのだろうか? すな わち、時空というパラメータ空間のなかに物質の状態が存在する(そして、一 般相対論で言うように、パラメータ空間のメトリックと物質の状態が関係しあっ ている)、という描像はこの世界を完全に記述しているのだろうか? それと もなにか時空というものは人間の認識作用の段階で出てくる見掛けの変数では ないのか? 特に量子論を考え合わせてみると観測量でない時空に実体的な意 味を持たせるのは何か間違っているのではないだろうか?

人間が何かを観測するとき、時間や空間という概念が直接出てくることはない。 あくまでも、事象と事象の間の関係を表す指標としてしか出てこない。例えば、 ある物が1メートル動いたというときはその物と他の物との位置関係が変わっ たということが起きたことすべてであり、どのように位置関係が変わったかを 言い表すのに、1メートルという概念が使われただけである。ここで出てきた 1メートルという概念はまた、他の時に他の物が動いたときの位置関係との間 に定量的な対応がつくことから出てきた概念でしかない。そういう事象の関係 を離れて1メートルという実体が存在するわけではない。すなわち、1メート ルという概念は、事象と事象の位置関係というものが人間に定量的に認識でき るという事実を表していて、それ以上の実体としての距離が存在しているわけ ではない。

時間もまた同様である。時間を測るときは常に何か時計となるものを用いて針 の位置などと測っているものの状態を見比べているにすぎない。また、時間に は過去と未来という一見明確な区別があるが、これを区別しているのは何かと 考えてみると、人間の記憶している事象が過去で、これから起こると期待する 事象が未来である、という意味しかないことがわかる。あるいは直接記憶して いないこともある。そのときは現在に痕跡の残っている事象が過去である。で は、現在を決めているのは何かと考えてみると、人間が今認識していることそ のものなのである。人間の記憶と矛盾なく過去に起こったと認識される事象が 過去なのである。人間がいなくても過去と未来は区別できると考えるのは自由 であるし、いかにも自然であるように見えるが、それに根拠を求めるのは難し いこともわかる。確実に言えることは人間の記憶が過去と未来を区別している ということだけである。人間の認識作用を離れて時間、また、過去や未来が規 定されると考えるのは我々の経験から出た狭い視野を敷衍しすぎかもしれない。

こう考えてくると、人間の、記憶を含めた認識作用が時間空間という概念を産 み出しているだけなのではないかという考えが浮上してくる。なにか基本的な 宇宙の姿があって、その中のまさに一部に、人間の認識作用という事象がある。 そしてその認識作用は真の宇宙の中の一部分と相互作用して、時空の中に事象 が起こっている宇宙という姿を感じ取っている。時間や空間という概念もその ような認識作用の一段階で現れてきただけのものである。実際に同一事象間の 時間空間は観測する人間によって異なる値を測定することが知られているが、 相対論は、そのような、人間に認識されている世界の一部分を現象論的に表し ているという理論なのではなかろうか? また、量子論の観測問題が人間の認 識作用と深く関わっていることも示唆的であろう。

Einstein 方程式がこれほど簡潔な形をしているのは、そのような認識作用の メカニズムがそれほど難しくない記述を持つことを示唆しているのかもしれな い、と考えるのも楽しいかもしれない。しかし、人間の認識作用が認識作用そ のものを理解できるほど高度であれば、高度すぎて理解できないかもしれない が。


Takahiko Matsubara
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