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空と物理学について

仏教思想の1つによれば、この世の中には絶対的な実体というものがまるでな い。実体的なものはなにもかも、徹底してなにもない。すなわちこの世の中の 本質は「空(くう)」であるというのである。(c.f. 般若心経, いろは歌)。われわれが常識的に実体 だと思っているものはすべて幻想である。すべては現象と現象の間の相対的関 係(すなわち縁起)においてのみ存在するのである。したがって、この世の中 のあらゆる存在はわれわれがものを認識するという作用を離れて存在するわけ ではない。すなわち主体と客体とは不可分なものである。

このような思想は、現代物理学の二本の柱、相対性理論と量子論、の根本的な 考え方に奇妙に一致しているだろうか。これは、ニューサイエンスじみて聞こ える質問であるが、あえて考えてみよう。

現代物理学以前の物理学においては時間空間は絶対的な存在であり、その中で 物質が運動すると考えられ、物理法則はその考え方のもとに記述されていた。 ところが、相対論においては時間と空間は絶対的に不変な存在ではないという 考え方から出発し、多くの物理現象の説明に大成功をおさめた。ある人にとっ ての1メートルは他の人にとっての2メートルである。ある人にとっての1秒 は他の人にとっての2秒である。実は時間と空間は不可分であり、独立に存在 するものではない。

また、多くの卓越した人々の錯綜と沈思の結晶である量子論においては、自然 現象は人間が観測するまで定まらないことになっている。ある結果というもの は人間が観測して初めて定まるのである。観測するまでは与えられた条件下で すべての可能な結果の重ね合わせの状態にあるのである。すなわち、主体を離 れて(確定した状態としての)客体は存在しないのである。観測行為そのもの が結果を左右するのである。(観測過程で何が起こり結果が確定するのかは完 全に理解されているわけではなく、観測問題と 言われる)

さて、現代物理学はこのように空の思想と奇妙に一致しているのではあるが、 空の思想を体現しているわけではない。相対論においては、一見一致している ようでいて実は空とは正反対の内容も含んでいる。すなわち、相対論において は時間と空間をあわせた時空間というものに絶対的な存在を認めているのであ る。その観測する値は観測者により異なるにせよ、依然として時空間とその中 で起こる現象は実体的な存在なのである。空の思想においてはあらゆる実体的 な存在という存在をことごとく否定しているのであるから、現象の時空間的記 述が相対的であるというところは一致しても、存在そのものの相対性には至っ ていないのである。

量子論は観測者と観測対象の相対性を述べているのである。ところが、相対論 は、その名前とは裏腹に、時空間を主体の有無を離れた絶対的存在として認め ているのである。時空間も観測対象の一部であるとみなせようから、相対論も 量子論的に書き表されねばならない、というのが、いまだ完成を見ない量子重 力理論の立場である。現在存在する具体的理論としての量子論は時空間を観測 対象として認めていない。時空間の中にある物質についてのみ言及しているの である。この理論形式のゆえにいまだ相対論と量子論の融合された理論は作り 上げられていないのである。

観測というものは時空間の一点と物質現象を特定するものである。時空間の一 点のみを言っても、あるいは物質現象のみを言っても、観測としての意味をな さない。この、時空間と物質現象のセットは1セットのみで存在するものでは ない。実際の観測とは、そのセットどうしの関係を特定することである。量子 論ではこのセットの要素、時空間と物質現象を独立した対象とする理論形式に なっている。物質現象がどうあろうと(特殊相対論的な)時空間の存在には影 響をおよぼさないことになっている。ところが、実際には、一般相対論により、 物質現象と時空間は互いに影響しあうのである。すなわち、時空間は物質現象 と独立には論じられないのである。

量子論の理論形式では、そのような不可分なものの一方(物質現象)の実体性 を否定し、もう一方(時空間)の実体性を認めてしまっているという点で、片 手落ちなのである。この意味では量子論も空の思想を体現しているものではな い。

ここから、空の思想を完全に体現すればより完全な物理学理論ができるであろ う、というような予想は超科学的(=あっちの世界)になるかもしれないので、こ の辺で筆を置く、いや、セーブしてエディタを閉じるほうがよさそうである。

松原 隆彦


Takahiko Matsubara
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