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プランク期と量子宇宙論

宇宙の時間を極限まで遡っていくと,宇宙はどんどん小さくなり,いずれは古 典的な描像が描けなくなる.そのような宇宙では一般相対性理論は適用できな くなり,宇宙が量子的に振る舞うようになるであろう.だが,我々はそのよう な宇宙の状態についての完成された物理理論を手にしておらず,実際のところ, このような宇宙の状態については,ほとんどなにもわかっていないと言える. だが,この問題は宇宙の創世にかかわる,究極の宇宙論的問題であり,なんと か解決の糸口を見つけたいと思うのが人情であろう.問題はたいへん難しく, 現状で信頼に足る理論はないのであるが,ここでは,この困難な問題に対する いくつかのアイディアを紹介することにしよう.

プランク時間

まず,一般相対性理論が成り立たなくなる時間を見積もってみよう.宇宙初期 のフリードマン方程式 $ H^2 = 8\pi G \rho/3 c^2$ を考えると, $ H \sim 1/t$ より, $ t \sim c/\sqrt{G\rho}$ となる.また,ハッブル半径内のエネルギー は $ E_{\rm H} \sim (c/H)^3 \rho \sim c^5 t/G$ である.これが不確定性関係 $ E_{\rm H}\times t \sim \hbar$ を満たす条件から,次のプランク時間

$\displaystyle t_{\rm P} = \sqrt{\frac{\hbar G}{c^5}} = 5.40 \times 10^{-44} {\rm sec}$ (E.4.53)

よりも以前の宇宙は因果関係にある領域すべてにわたって古典的な描像が成り 立っていないことがわかる.このプランク時間は重力,特殊相対論,量子論を それぞれ記述する基本定数,$ G$ , $ c$ , $ \hbar$ によってつくられる時間スケー ルであり,このようなスケールでは時空そのものが量子的に扱われる理論の支 配する領域となるべきことを示唆している.このような理論には名前だけつけ られていて,量子重力理論(quantum gravity theory)と呼ばれている. 一般相対論と量子論のできた20世紀前半から,この二つの理論は折り合いが悪 いことが直ちに認識されていた.それを統一しようという試みは長いこと行わ れてきたが,この二つの理論は根本的な考え方が異なっており,これまでのと ころ未解決の物理学上の大難問となっている.

ホイーラー・ドウィット方程式

以下では,重力場を量子化しようとしたときにどのような困難が現れてくるの かを具体的に見るため、すこしくわしく重力場の量子化を考えてみる.係数の 煩わしさを避けるため,ここでは特に断らない限り $ c = \hbar = 8\pi G = 1$ となる自然単位系を用いる.通常の正準量子化の手続きに従って,一般相対性 理論を量子化することを考えてみよう.そのためにまず,一般相対性理論を正 準形式で書き下し,ここからシュレーディンガー方程式をつくって量子化すれ ばよいと考えられる.

このため付録B.2.11の重力場の正準形式を用いる.これにより通常 の量子化の手続きに従って系を量子化してみよう.量子論では正準変数は演算 子となり,次の同時刻交換関係が設定される:

    $\displaystyle \left[N({\mbox{\boldmath$x$}},t), \pi({\mbox{\boldmath$x$}}',t)\right] =
i\delta^3({\mbox{\boldmath$x$}} - {\mbox{\boldmath$x$}}'),$ (E.4.54)
    $\displaystyle \left[N_i({\mbox{\boldmath$x$}},t), \pi^j({\mbox{\boldmath$x$}}',...
...t] =
i {\delta_i}^j \delta^3({\mbox{\boldmath$x$}} - {\mbox{\boldmath$x$}}'),$ (E.4.55)
    $\displaystyle \left[h_{ij}({\mbox{\boldmath$x$}},t), \pi^{kl}({\mbox{\boldmath$...
...^l{\delta_j}^k\right)
\delta^3({\mbox{\boldmath$x$}} - {\mbox{\boldmath$x$}}')$ (E.4.56)

量子論において拘束条件は物理的状態空間 $ {\cal V}_{\rm phys}$ を規定する ものとして取り扱うことができる.つまり,物理的状態空間に属する状態ベク トル $ {\mit\Psi}\in {\cal V}_{\rm phys}$ は拘束条件から作られる演算子の作用 により消えなければならない:
    $\displaystyle \pi {\mit\Psi}= 0,$ (E.4.57)
    $\displaystyle \pi^i {\mit\Psi}= 0,$ (E.4.58)
    $\displaystyle {\cal H} {\mit\Psi}= 0,$ (E.4.59)
    $\displaystyle {\cal H}^i {\mit\Psi}= 0$ (E.4.60)

つまり、そのような状態ベクトルの集合が物理的状態空間であり,物理的な状 態はすべてこの空間内の状態ベクトルで表されるものと考えるのである E3

ここで,具体的な演算子の表示としてシュレーディンガー表示

    $\displaystyle \pi = -i\frac{\delta}{\delta N},$ (E.4.61)
    $\displaystyle \pi^i = -i\frac{\delta}{\delta N_i},$ (E.4.62)
    $\displaystyle \pi^{ij} = -i\frac{\delta}{\delta h_{ij}}$ (E.4.63)

をとろう.このとき $ {\mit\Psi}$ $ N$ , $ N_i$ , $ h_{ij}$ の汎関数である.条件 (5.4.58), (5.4.59)は単純に,状態ベクトル $ {\mit\Psi}$ が3次元 計量$ h_{ij}$ のみに依存することを要求している.さらに条件 (5.4.61)を書き直すと任意の3次元ベクトル場$ \xi_i$ について

$\displaystyle \int \sqrt{h} d^3x \xi_i \left(\frac{\delta{\mit\Psi}}{\delta h_{ij}}\right)_{\vert j} = 0$ (E.4.64)

となるが,これは3次元面 $ {\mit\Sigma}_t$ 上での座標変換 $ \delta h_{ij} =
\xi_{i\vert j}$ に対し $ {\mit\Psi}[h_{ij}]$ が不変である,という条件に等価である. すなわち,条件(5.4.58), (5.4.59), (5.4.61)の意味 するところは, $ {\mit\Psi}$ $ {\mit\Sigma}_t$ 上の3次元の座標に依らない幾何学的性 質にのみ依存する,ということである.

残った条件(5.4.60)が状態ベクトル $ {\mit\Psi}$ を具体的に規定する方程式 であり,それは汎関数微分方程式

$\displaystyle \left[ G_{ijkl} \frac{\delta}{\delta h_{ij}} \frac{\delta}{\delta...
...+\sqrt{h}\left({}^{(3)}R - 2{\mit\Lambda}\right) \right] {\mit\Psi}[h_{ij}] = 0$ (E.4.65)

となる.ここで,

$\displaystyle G_{ijkl} \equiv \frac{1}{2\sqrt{h}} \left(h_{ik} h_{jl} + h_{il} h_{jk} - h_{ij} h_{kl}\right)$ (E.4.66)

である.ただし,一般に量子系においては演算子順序に不定性があるが,その問 題はいま無視している.式(5.4.66)が量子重力系を記述する本質的 な方程式であり,ホイーラー・ドウィット方程式(Wheeler-De Witt equation)と呼ばれている.

いちおう,量子化された重力場を記述すると思われる方程式が得られるが、こ の方程式には問題点が山積している.まず,方程式が無限自由度をもつので複 雑すぎて一般的に解くことが不可能である.また,すぐ上に述べた演算子順序 をどう取ればよいのかわからない.さらに,このホイーラー・ドウィット方程 式は双曲型に対応する微分方程式であることが大きな問題である.この場合, クラインゴルドン方程式などと同様に,波動関数から保存する確率密度を定義 することができなくなるため,波動関数の物理的意味付けができない.また, 上でくわしく見たように,ハミルトニアンが拘束条件のみで書かれてしまって いる.これは量子系において奇妙なことになる.なぜなら,任意の物理量を表 す演算子$ A(t)$ の期待値は,物理的状態空間 $ {\cal V}_{\rm phys}$ に属する 状態ベクトルについて

$\displaystyle \left\langle {\mit\Psi} \left\vert A(t) \right\vert {\mit\Psi} \r...
... = \left\langle {\mit\Psi} \left\vert A(0) \right\vert {\mit\Psi} \right\rangle$ (E.4.67)

となってしまい,どのような物理量も時間発展を全くしないということになる からである.このことに対応して,ホイーラー・ドウィット方程式には本来の 時間座標の含まれない,定常状態の方程式となっている.これは宇宙全体を計 量場として量子化した場合,宇宙には時間座標が含まれないことを示唆する. そもそも宇宙には時間座標というものが含まれておらず,時間というもの自体 が現象論的なもののように見えるが,その意味するところは不明である.

そもそも,宇宙全体を量子化した場合,波動関数の物理的意味はまったく不明 である.通常の量子系では,波動関数は確率解釈によって観測量と結び付いて いるのだが,いまの場合,確率解釈が意味をなさない.確率解釈とは,系を何 度も観測してみたときに得られる観測値の確率を,波動関数と結び付けるもの である.これは,系と観測者が明確に分離しているときにしか適用できない. ところが,観測者の住んでいる宇宙はひとつしかなく,観測者自身も宇宙の一 部であるため,このような解釈はまったくできなくなる.

量子重力と経路積分

上に見たように,正準量子化はあまりうまく行かないように見える.量子化の 方法は一通りではなく,他の量子化法の一つとしてファインマンによる経路積 分量子化がある.ここでは重力場を経路積分による量子化取り扱いを紹介する.

2つの空間的な3次元面 $ {\mit\Sigma}'$ , $ {\mit\Sigma}''$ を考え、その上の3次元計 量をそれぞれ$ h_{ij}'$ , $ h_{ij}''$ とする.すると,経路積分によりこの2 つの面の間の遷移振幅は

$\displaystyle \left\langle \left. h_{ij}'' \right\vert h_{ij}' \right\rangle = \int_{{\mit\Sigma}'}^{{\mit\Sigma}''} {\cal D}g \exp\left(i S_{\rm C}[g]\right)$ (E.4.68)

と表される.ここで,$ S_{\rm C}$ は式(B.2.85)で与えられる時空に境 界のある場合の重力場の作用である.またここで,経路積分は2つの面上の計 量を固定して,その間をつなぐすべての4次元計量についての和をとることを 意味する.この時,必然的に2つの面の間の固有時間についても和が取られる ことになるところは,通常の経路積分にはないことである.また,ある空間的 な3次元面 $ {\mit\Sigma}$ 上の計量$ h_{ij}$ に対する波動関数は次のように表され る:

$\displaystyle {\mit\Psi}\left[h_{ij}\right] = \int^{{\mit\Sigma}} {\cal D}g \exp\left(i S_{\rm C}[g]\right)$ (E.4.69)

ここで経路積分は3次元面 $ {\mit\Sigma}$ 上での計量$ h_{ij}$ を固定する条件です べての計量について和をとるが,状態を定めるにはこの和について,初期条件 あるいは境界条件に対応するなにか付加条件が必要である.

式(5.4.70)はその定義から,ラプス変数$ N$ に依存していない.このこ とは次を意味する.

$\displaystyle 0 = \int {\cal D}g \frac{\delta S_{\rm C}}{\delta N} \exp\left(i S_{\rm C}[g]\right)$ (E.4.70)

ただし,$ N$ は作用$ S_{\rm C}$ の上限における値である.また,積分測度 $ {\cal D}g$ $ N$ の変化に対し不変であるか,または適当に正則化されている ものと仮定する.ここで,具体的な計算により次の関係を確かめられる:

$\displaystyle \frac{\delta S_{\rm C}}{\delta N} = - {\cal H}$ (E.4.71)

また,ハミルトン・ヤコビの式から

$\displaystyle -i\frac{\delta}{\delta h_{ij}} \int {\cal D}g \exp\left(i S_{\rm C}[g]\right) = \int {\cal D}g \pi^{ij} \exp\left(i S_{\rm C}[g]\right)$ (E.4.72)

であることに注意すれば,式(5.4.71は結局ホイーラー・ドウィット方 程式と等価であることがわかる:

$\displaystyle {\cal H}\left(-i\frac{\delta}{\delta h_{ij}}, h_{ij}\right) {\mit\Psi}\left[h_{ij}\right] = 0$ (E.4.73)

すなわち,式(5.4.70)で与えられる波動関数はホイーラー・ドウィット方 程式の解となっていることがわかった.

量子論において波動関数の内積は重要な役割を果たす.経路積分表示 (5.4.70)を用いると波動関数の内積が簡単に定義できる.2つの状態

    $\displaystyle {\mit\Psi}\left[h_{ij}\right] =
\int_{{\mit\Sigma}, P} {\cal D}g
\exp\left(i S_{\rm C}[g]\right)$ (E.4.74)
    $\displaystyle {\mit\Psi}'\left[h_{ij}\right] =
\int_{{\mit\Sigma}, P'} {\cal D}g
\exp\left(i S_{\rm C}[g]\right)$ (E.4.75)

を考える.ただし,$ P$ , $ P'$ はこの2つの経路積分が異なる付加条件を持つ ことを表している.この2つの状態の間の内積を次のように定義する:

$\displaystyle \left({\mit\Psi}', {\mit\Psi}\right) = \int {\cal D}h {{\mit\Psi}'}^*[h_{ij}] {\mit\Psi}[h_{ij}] = \int {\cal D}g \exp\left(i S_{\rm C}[g]\right)$ (E.4.76)

2番目の表式では、過去に付加条件$ P$ ,未来に付加条件$ P'$ が課せられてい る.このように,経路積分を用いると極めてシンプルに内積を導入することが できる.

さて,一般に場の理論における経路積分を収束させるためには時間変数のウィッ ク回転

$\displaystyle t \rightarrow -i\tau$ (E.4.77)

を行う必要がある.これによりはじめて物質を表す場の作用が準正定値となっ て経路積分が収束するのであった.重力場に対しても等しくウィック回転を行 うものとすると,境界のある場合の作用(B.2.85)は

$\displaystyle S^{\rm E}_{\rm C} = - \frac{1}{16\pi G} \int_M \sqrt{g}d^4x (R - 2{\mit\Lambda}) - \int_{\partial M} \sqrt{h} d^3x K$ (E.4.78)

となって経路積分は

$\displaystyle {\mit\Psi}\left[h_{ij}\right] = \int^{{\mit\Sigma}} {\cal D}g \exp\left(- S^{\rm E}_{\rm C}[g]\right)$ (E.4.79)

となる.ところが,重力場の場合この作用が準正定値ではないという重大な欠 点がある.事実計量のコンフォーマル変換 $ g_{\mu\nu} \rightarrow
{\mit\Omega}^2 g_{\mu\nu}$ を行うことにより作用(5.4.79)はいくらでも負 になってしまうことがわかる.このため経路積分は発散して意味のないものと なってしまう.そこで,コンフォーマル変換に対応する自由度の方向を解析接 続により $ {\mit\Omega}= 1 + i\xi$ の形にして経路積分を実行し,その後残りの自 由度へ経路積分を実行すれば,少なくとも量子論の1ループ近似ではうまくい くことが知られているが,一般の場合に意味のあるものなのかどうかは不明で ある.

上で述べたように経路積分により波動関数を定めるには積分について,初期条 件あるいは境界条件に対応する何か付加条件が必要であるが,どのようなもの を取ればよいのか明らかではない.ハートル(Hartle)とホーキング(Hawking) は,宇宙の波動関数を得るためにはユークリッド化された経路積分 (5.4.80)においてコンパクトな幾何をもつ計量についてのみ和をとるこ とが,宇宙の基底状態の波動関数を与えるのではないか,という提案を行った. コンパクトな幾何とは簡単に言えば有限で特異点の存在しないようなものであ る.このようにして境界条件を固定して得られる波動関数をハートル・ホーキ ング型の波動関数という.この処方によると3次元体積がゼロになるような状 態に対しても波動関数が存在しうる.また宇宙の始まりに特異点の存在しない ようなもので,すっきりした描像となっている.この処方の正当性は全く明ら かではないが,一つの考え方としてよく調べられるものである.

量子宇宙論

ここまで見てきたように量子重力には概念的なところからさまざまな困難が存 在する.だが,かなり簡単化したモデルを使って宇宙の創世がどのようなもの であったかを多少なりとも垣間見ようとする研究が行われてきた.このような 研究の分野は量子宇宙論(quantum cosmology)と呼ばれている.例えば, 時空の無限の自由度を扱うかわりに,一様等方時空の計量のみにはじめから制 限すると,スケール因子のみの1自由度になる.するとホイーラー・ドウィッ ト方程式は単なる1自由度の量子力学系になり,扱いやすくなる.そうしても 量子重力のもともと抱えている問題はなくなるわけではないが,問題を単純化 して考えることができるようになる.そのようにして,ビレンキンによる「無」 からの宇宙創世論,また上でも述べたハートル・ホーキングによる境界のない 境界条件による宇宙創世論,などが提案されてきている.だが,矛盾のない量 子重力理論があるのかどうかもわからない現状では,これらの議論をどの程度 まじめにとらえていいのかは,全く不明である.



Footnotes

... 態はすべてこの空間内の状態ベクトルで表されるものと考えるのであるE3
これら量子系の拘束条件が無矛盾であるためには,拘束条件を表す 演算子順序を適当にとり,拘束の交換子が新しい拘束を生まないようにしなけ ればならない.ところが実は,どういう演算子順序をとっても,それは満たさ れないことが示せてしまう.ド・ウィットは $ \delta(0)=0$ を満たすような特 殊なデルタ関数を用いればこの困難を避けられることを指摘している.

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