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東海村と私

いまや、かなりイメージが悪い原子力であるが、1979年にスリーマイル島 で大規模な原子力発電所の事故が起こる前ぐらいまでは、原子力は夢のエネル ギー源として大きく期待されていた。手塚治虫の鉄腕アトムは原子力で動く夢 のロボットであるが、このことからもいかに期待されていたかを推し量ること ができるだろう。アトムは原子のことであるし、ウランちゃんやコバルトとい う名前は原子力に用いられる元素の名前から来ている。原子力は当時、まさに 未来の夢のエネルギーだったのである。

私の父は経済的援助の全くない中、働きながら自力で大学の夜間部へ通い、 電子工学科を卒業した。そしてさらに難関で知られる第一種国家公務員試験に も合格したのである。そして就職先を探っていたのだが、当時花形の研究室で ある東大の原子力工学科の助手に採用され、原子力の研究へ入っていったので ある。大学の教員になるためには公務員試験は関係ないのだが、結果的にはそ れが教授の目にとまって縁ができたということらしい。そして数年後、私は生 まれた。父の研究室の助教授にはプラズマ物理の一丸節夫氏がいたが、一丸氏 は後に東大物理学教室の教授となっている。そのずっと後、私も東大物理学教 室の助手となったのは奇遇であった。一丸氏は私と入れ替わりで退官されてい たが、お会いする機会は何度かあり、父のことはなつかしく憶えているとおっ しゃっていた。

父はしばらく東大に勤めた後、日本の原子力研究の中心地、東海村にある 日本原子力研究所(原研)に移った。当時は日本原子力研究所といえば、大学 では考えられないほどの予算を使える人気の研究所であり、エリートが全国か ら集まってきたというところである。それはそうであろう。日本のエネルギー 問題を担う期待の研究所だったのだから。当時原研に就職が決まったといえば、 出身地の町では大きなお祝いがなされるというぐらいのものだったそうである。 いまでは全く考えられないであろう。

そういうわけで、東海村に引っ越したのである。転居先は原研の社宅であ る荒谷台住宅というところであった。私たちの家族が住んだ荒谷台住宅11-6は なんと、有名な原子物理学者である菊池正士が以前住んでいたことがあるとい う部屋であった。菊池正士は当時、原研の所長、および理事長をしていたので ある。当時はなんのことやらわからなかったが、偉い人の部屋に住んだもので ある。ちなみに彼の父は日本人初の数学教授で、東大総長、文部大臣を歴任し た学界のドン、菊池大麓だという。ななめ隣りには菊池正士の息子夫婦が当初 住んでいて、夫婦でピアノとバイオリンの合奏をしているのがよく聞こえてき たというが、残念ながら私は覚えていない。また、夏目漱石の孫や、吉田茂の 息子なども近所に住んでいたという。

東海村は原研ができる前は無名の寒村であり、とてつもない田舎であった という。私たちの家族が引っ越してきたときは原研ができてから10年ほど経っ ていたが、まだまだかなり不便な場所であった。しかし、子供にとっては遊ぶ 場所には困らなかった。荒谷台住宅には同世代の子供がたくさんいたので、あ たりをかけずり回って遊んでいた。荒谷台住宅の前には原研の正門からまっす ぐのびた原研通りという道路が通っていた。その原研通りをはさんだ向こう側 はくぬぎ林が広がっている寂しいところであった。だが、そこは実は夏になれ ばかぶと虫やクワガタがたくさんとれるし、そうでなくても探検のしがいのあ る、子供にとっては夢のような場所であったのである。かぶと虫は、昼間に蜂 蜜を木の幹に塗っておくとなおよく、朝、暗いうちに採りに行くのである。そ して、採れたかぶと虫はその日に小学校へ持って行き、先生に怒られるのであ る。クワガタよりもかぶと虫の方がポイントがかなり高い。

また、かぶと虫に匹敵するのは少し遠くの田んぼなどへ行くと採れるアメ リカザリガニである。これはなかなかかっこいいのであるが、家に持って帰る とやはり怒られるのである。どの友達の家で飼えるかを真剣に悩んでいたので ある。家に持って帰ると怒られる代表はトカゲである。これは荒谷台住宅の庭 でとれるので、よくしっぽを切って遊んでいた。切ったしっぽがどれくらい動 いているかを競っていたのである。あるときトカゲの卵をたくさん見つけて、 友達と分けて家に持ち帰ったことがある。次の日、私の家も友達の家も、トカ ゲの子供が家じゅうにうごめいていて、こっぴどく叱られたのである。

荒谷台住宅の中に公園があり、毎日そこで遊んでいた。公園の半分はすべ り台などのある場所であり、一般の子供が遊ぶ場所である。残りの半分は空き 地のようになっていて、そこを陣取り、毎日のようにソフトボールをしたので ある。野球でないのは、その場所が狭いので、ソフトボールでなければボール が飛びすぎて一般の子供が遊んでいるところへボールが飛んでしまってホーム ランが出過ぎてつまらないからである。あるときソフトボールがなくて、軟球 で遊んでいたところ、私の打ったボールがすべり台のところへ飛んで行って、 そこで遊んでいた女の子の頭に命中してしまったことがある。その子はちゃん と成長したのだろうか。心配だ。

父は仕事でコンピュータを使っていたので、家にはコンピュータ関連の物 があふれていた。とはいえ、自家用のコンピュータなどは世の中にはなかった。 簡単な計算は計算尺を使っていたくらいである。家にあったコンピュータ関連 のものとは、今では時代の遺物のような、パンチカードや出力用紙のことであ る。これは私と妹にとってはお絵かき用紙以外の何物でもなかった。ほとんど は父が失敗したものを子供のらくがき用などに持ち帰ってきたのだと思う。当 時は紙を湯水のように使っても環境問題などというものはなかったのである。 マジンガーZなどで、博士がよく読んでいた紙テープに穴のたくさんあいたよ うなやつもあった。あれは人間の読むものではないと知ったのはずっと後のこ とであった。はやくこれを読めるようになりたいと見当違いの目標を立ててい たのである。

外人住宅という、今考えたら、ちょっとどうか、という名前で呼び習わさ れていたところには外国人の子供もいた。言葉は通じないが、鬼ごっこなどを するのに言葉は全く関係なかった。しかし、そこは子供心にもランクの違う住 宅だと感じた。広い芝生付きの家という、典型的なアメリカ型住居だったよう に記憶しているが、いま考えれば、アメリカの標準からはかなり狭い。他にも いろいろと知らないところへ行ったり、とにかく遊ぶ場所や遊ぶことには困ら なかった。

かなり楽しい東海村生活であったが、小学校の3年の終わりに強制的に母の 田舎に引っ越しさせられた。これはいろいろな親の思惑の結果であるが、突然 東海村生活は終わりを告げた。その後も父は10年近く原研に勤めていたので、 よく遊びに行った。東海村はどんどん発展していて、以前は田畑のなかにぽつ ぽつと集落がある、ど田舎という雰囲気だったのが、原研通りを中心にスーパー や銀行、高校などができて、街なみが充実してきた。以前遊びまわっていた場 所はなくなっていった。かぶと虫の狩場であったくぬぎ林もなくなってしまっ た。

そうこうするうち、スリーマイル島やチェルノブイリの原子力事故などに より、花形だった原子力の研究も凋落していき、いまや誇らしげに原子力の研 究をしていると胸を張って言えるようなものではなくなってしまった。いまや 原子力は必要悪といったネガティブなイメージとなってしまった。世間の評価 はかように移ろいゆくものである、という好例である。父も転職をしたので、 東海村へ行く機会はなくなってしまった。その後聞こえてくる東海村の話題は 動燃の放射能漏れ事故隠しなどネガティブなニュースのみであった。昨年、東 海村とか、舟石川とか妙に懐かしい地名をアメリカのテレビで聞くことになっ てしまったが、やはり最悪のニュースであった。これは世界じゅうに悪名を轟 かせた。いまや、東海村に対してポジティブなイメージを持っている人はほと んどいないであろう。しかし、それでも東海村は、私にとってかけがえのない 思い出の詰まった、特別の土地であることに変わりはないのである。

2001年4月8日


Takahiko Matsubara
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