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科学と宗教について

科学は宇宙や生命の起源や成り立ちを論ずるので、どうしてもこれまで宗教の 教えてきた世界観とオーバーラップしてくる。それほどものごとの起源や成り 立ちは人間の根源的な問いなのであるが、科学と宗教でお互いに異なった、な じまない考えが現れてくると気まずい思いをする。宗教においては一貫した教 えを保持するために、また、科学では科学的方法への信頼のために、お互いを 無視しがちである。お互いに干渉がなく、それでうまくいっていればいいのだ が、矛盾した世界観を啓蒙する場合、なんとも居心地が悪い。

このような居心地の悪さは、進化論とキリスト教のように際立った対立を引き 起こす場合もある。地動説を擁護したガリレオに対する裁判のような例もある。 このような場合、どちらかが正しく、どちらかが間違っているという二元論と なりあまり生産的な状況とは言えないであろう。

科学も宗教も人間の営みである以上、それによりできるだけ多くの人がハッピー になるのが望ましいであろう。すると、お互いに議論の余地のない対立を引き 起こすのは望ましい状況ではない。このような対立が起こるのは、各々が真実 はこれだ!という見解を持っていて、しかも、お互いにそれが矛盾している場 合である。この場合、少なくとも一方は真実ではないということになり、これ では対立を引き起こすことは避けられない。

真実とは、揺るぎようのない事実ということになるであろうが、そのようなも のはあるのだろうか。あらゆるものごとは疑えばいくらでも疑うことができ、 究極的にはあらゆるものは幻想であると考えることも可能である。デカルトの 言うように唯一ものごとを知覚している自分の意識があるということしか言え ない。我々は経験的に、だれから見ても正しいと思われる事実があると考えて いるし、通常経験する物事はそうなっている。しかし、それはどこまでも正し い真実があることを意味していない。

実際には、真実とは自分の心のよりどころとする見解であり、客観的な証拠の 乏しいことについては人によって見解が異なっている。どんな人でも同意でき ることが実際上の真実と考えられている。どんな人でも同意するかどうかを知 る手だてはない。現在の地球上のすべての人が同意する物事でも、将来地球に 存在する人がすべて同意するとは限らない。昔は当然と思われていたことも、 今では間違いであるとされていることがある。また、仮に地上の人間がすべて 同意したとして、地球外の宇宙人が同意するかどうかわからない。真実とは、 唯一の絶対的なものであると考えられているが、実際には人によって異なって いるのが現状である。

すると、絶対的な真実というものは定めようがない。どんな人でも同意するこ とは事実上不可能であり、かなり多くの人が同意するということがせいぜいで ある。より真実に近いかどうかという相対的なことしか定めることはできず、 どれくらい真実に近いかは、同意する人の数で計ることになる。絶対的な真実 があるはずである、と無批判に考えることは危険である。

科学と宗教が矛盾していると考えられるのは、どちらかが絶対的な真実を述べ ていて、どちらかは単純に間違っていると考えられるからである。ところが、 真実と呼ばれるものはすべて相対的であると認識すれば、そのような二元論は 単純化しすぎたものである。

科学においては、自然の観察によりそれを説明する理論を作り出す。定量的な 実験、観察によりそれは実際上の応用に大成功を収め、その理論が真実である、 と考えられている。少なくとも現在、あらゆる理論には適用限界が存在し、ど こまでも正しいという理論はない。以前に真実と考えられた理論が新たな理論 に取って代わられるということもあり、科学的な真実とは、唯一無二のもので はないという考えも広く見られる。ところが、科学を啓蒙するときには、科学 で明らかになった真実はこれだ、という形になってしまう。

一方、宗教における世界観は多分に象徴的なものである。そこで展開される世 界観は教えを広めるために分かりやすく単純化されたものであると考えるべき であろう。宗教はそもそも人間がいかに生きるべきかを教え導くものであり、 教えられる世界観はその目的のために存在すると言えよう。宗教における真実 とは、無条件に与えられるものであり、それを疑い、検証しようとすることは、 宗教の目的にそぐわないものである。

そうしてみると科学と宗教において与えられる世界観が異なっていることは各々 の目的からいえばどうでもよいことである。宗教も科学もその営みの中で展開 される世界観を一般に啓蒙しようとするとき、大幅な単純化がなされ、あたか も絶対的な真実に到達しているかのような印象を与えている。そのような存在 しないものについてのイメージが矛盾しているとしても、全く問題ではない。 そのような枝葉末節にとらわれず、各自が本当の目的、希望に向けて智慧を働 かせながらハッピーに生きることこそが重要である。

2000年11月8日


Takahiko Matsubara
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