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オカルトについて

オカルトとは何なのかよくわからないが、魔術、神話、心霊現象、UFO、宗 教、占い、などなど、総じて科学的研究の対象外となる自然現象(といってい いのかわからないが)を指すようだ。厳密なオカルティズムとは西洋の神秘学 のことだけを指すのかもしれないが、広い意味でオカルトとは科学的でないも の、といっていいと思う。つまり、オカルトとは科学の補集合ということで、 科学によって規定されるなんとも妙なものではある。

科学が発達してないところではオカルトもなにもすべての自然現象がいっ しょくたになっているはずである。一人の人間に経験できることは限りがある ので、いろいろな知識は伝聞に基づくところが大きい。日常の生活で経験でき ないような話はそれを信じるか信じないかが事実か事実でないかを決めてしま う。社会あるいはコミュニティー全体で信じている場合には歴然とした真実と なりうる。

自然現象は複雑怪奇であり、人間はそれをなんとか理解しようとする。そ の中でオカルトによる理解は一つの方法である。それを信じる人にとっては紛 れもない真実ということになる。科学による自然現象の理解が躍進し、さらに その理解にもとづく実用的な応用が進むにしたがって、オカルト的な自然現象 の理解の方法は弾圧されつつある。科学の自然現象の理解の方法は客観性が高 く、それゆえに実用性にも優れて、現代社会を席捲している。オカルトが日の 目を見るためには、科学と同様、あるいはそれ以上の実用的有効性を必要とす るであろうが、それは今のところあまり期待できない。

しかし、科学も永遠に有効ではないだろうことには気をつける必要がある かもしれない。現在の自然現象の理解のレベルにおいては科学は他の追随を許 さない強さを持っている。だが、自然の根源的な理解の程度となるとかなり低 いレベルにとどまっていると言わざるを得ない。あらゆる科学理論は、ある意 味ですべて現象論である。これ以外に考えられないという真実が解明されてい るわけではない。宇宙がなぜ存在するのか、について十分な証拠と確信をもっ て真実を答えられる科学者はいない。

現在、科学は圧倒的ともいえる成功を収めていることに疑問の余地はない が、盛者必衰の理、永遠に成功を収め続けられはしない。科学の成功もたかだ かこの百年とか二百年とかのことであり、いささか心許ない。とはいえ、現在 の科学にすら太刀打ちのできない現在のオカルトがこれに取って変わるとも思 えないが、科学的でないアプローチがすべて駄目であるとも言えないだろう。

明らかに事実を惑わすような考え方が広まるようなことは断じてまずいが、 考え方の多様性というものが失われるのもまたまずい。社会に有用である、と いうことは真実であるということと同義ではない。科学もまた、これまででは 最も客観的で、有用ではあるが、深いレベルで自然の本当の理解に到達してい るわけではない。

つまり、科学は万能であるわけではないが、これまでで最も自然現象の理 解とその応用に有効なものであったわけだ。別にそれは真実である必要はない。 真実とはなにかという問題にもひっかかってくるが、単に一つの自然の理解の 方法であって、たまたま応用に非常な成功を収めているものである。それ以外 に自然の理解の方法がないとは言えない。

現在の科学の進歩は目を見張るものがある。それだけに、いきづまりが来 るのも早いかもしれない。すでに物質文化にいきづまりの兆候は見えていると 思われるが、物質文化と科学は無縁ではない。もしかすると現在の若い世代は 物質文化と科学のいきづまりを体験することができるかもしれない。そのとき はまた新しい価値観が社会を覆って行き、新たな段階を体験できるだろう。こ れがいいことかどうかはわからない。比較的平和な現在は科学による豊かな物 質文化によるところも大きい。この物質文化が終って、また血で血を洗う争い を繰り返す世界になることも考えられる。そうでないことを信じたいが。

現在のオカルトは想像や迷信などに基づいたところが大きく見え、科学の アンチテーゼとしての役割を担うには役不足のように見える。科学に無知な人々 の興味を誘い、それを換金しているだけのようなものも多い。そのようなもの は有害無益であるが、科学の独走の危険性に警鐘を鳴らすようなオカルトがあ るならば、それは人類の存続のためにも必要かもしれない。

2000年7月10日


Takahiko Matsubara
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