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木下東一郎氏の驚くべき仕事

私が研究を始めたばかりのころ、所属していた研究所のセミナーに木下東一郎 氏(現コーネル大学名誉教授)が来て、自身の仕事についてお話されたこと があるが、その内容はいまでも強く印象に残っている。宇宙の研究では観測 事実の定性的な性質を説明することで満足してしまうことがあるが、それだけ では不十分であるということを、彼の仕事はいつも私に思い起こさせてくれる。 彼の研究は究極の定量的研究である。

彼は電子の異常磁気能率を量子電磁力学により理論的に求める。この量は現在、 10桁におよぶ精度で測定されている。この精度で理論的な予言を求めるには、 摂動論により、微細構造定数αの4次までの係数を計算しなければならないが、 これは簡単ではない。1次の項は簡単で、1、2ページの計算により求まる。 2次の項は7種類のファインマンダイアグラムにより表せるが、この計算は紙 と鉛筆によって、何年もかかって計算された。3次の項には72ものダイアグ ラムが必要であり、この計算は30年近い彼らのハードワークの結果、現在は コンピュータの代数演算プログラムの援用により、解析的に与えられている。 4次の項は891のダイアグラムを必要とし、彼はスーパーコンピュータによ る大規模数値計算により実行しているが、その数値精度の向上への探究はいま だに続いている。さらに、この精度になってくると、電子以外の粒子や非電磁 気的な力による補正も必要になる。木下氏の長年の努力の結果、現在、理論と 観測は9桁もの精度にわたって一致することが示されているのである。

このような確固とした実験的裏付けはそれ自身純粋に美しい。理論が確立する ためには、精密測定に耐えうるものである必要があるということを、この例は 端的に教えてくれる。現在、宇宙論の研究はこのような精密性というものに乏 しいが、目覚しい観測の進歩により精密宇宙論が現実的になってきている中で、 木下氏の研究は理論の精密的確立の重要性をこれからも私に思い起こし続けて くれるであろう。


Takahiko Matsubara
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