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量子力学の観測問題について

量子力学の枠組みには「観測問題」という不可解な、いまだ論争の絶えない問 題がある。量子力学において物理系はシュレーディンガー方程式によって時間 発展するが、人間の観測する物理量がいくつになるかということはシュレーディ ンガー方程式ではあらわされない。シュレーディンガー方程式が記述している のは観測する物理量がいくつになるかという確率のみを記述する。観測した結 果が具体的にいくつになるかということについては量子力学は何も答えない。

この点について伝統的なコペンハーゲン解釈では、人間が観測を行った瞬間に 「波束の収縮」が起こり、測定値は確率的にある値に定まるのだという。すな わち、人間の意識というものが観測を行った瞬間、決定的に系に作用するのだ という。

これに対し、多世界解釈においては、そのような神秘的な「波束の収縮」とい うものを排除する。すべてはシュレーディンガー方程式にしたがって時間発展 する量子力学的状態があるだけだというのである。ではなぜ人間の観測により 物理量が定まるのかといえば、観測した瞬間を境に、人間の意識がその観測量 がある値に確定した部分集合しか認識できなくなるというのである。つまり、 人間の意識というものは現在の世界の状態すべてを認識しているわけではなく、 ごくかぎられた量子力学的状態だけを認識しているのだという。そのかぎられ た量子力学的状態は、シュレーディンガー方程式の線形性ゆえに、それ以外の 補集合と相互作用することなく、その後の時間発展をする。したがって、われ われがある物理量の値を観測した世界のほかにも、他の値を観測した世界もあ り、そこから、「多世界」解釈と言われる。コペンハーゲン解釈では世界はあ くまで一つであり、観測をすることによっていくつもの世界を考えることはな い。

このような波束の収縮は人間の意識においておこるのではないと考える人もい る。莫大な自由度を持ち、一定の不安定性を持つ観測装置が、測定される系と 相互作用する過程で、環境との相互作用により量子力学的な干渉性が消え去り、 非干渉な混合状態になるという議論がある(が、あらゆる場合にそうなるとい う証明があるわけではない)。このような過程により、非干渉化が起こること はあるかもしれないが、物理量の混合状態のうちどの固有状態が最終的に採用 されるかについてはなにも言えないので、波束の収束が起こることとは別の問 題であり、このような議論は観測問題の深いところにはなにも言及できないと 思われる。非干渉化が測定される系と観測装置だけで起こるかも知れないこと は否定できないが、波束の収縮という現象の不可思議さは同じである。非干渉 化されていてもどの固有状態も同等である以上、人間の意識に観測結果が認識 されるまで波束の収縮は起こり得ない。

人間の意識、すなわち、外界を感覚し、判断し、行動をおこそうとし、ものの 全体像をつかむという作用も量子力学的なものであろう。事実、人間が判断を 下すときには脳の中のあるひとつの電子の位置が主要な結果をもたらすという 研究結果があるという。その一つの電子の位置は量子力学的に記述されるため、 どこにあるのかは量子力学的重ね合わせで表されている。このように見てくる と、もしすでに人間の感覚作用に入る前に系の波束が収縮しているとしても、 人間の意識において再び量子論的な干渉効果が現れることがないとは言えない であろう。そうすると人間の感覚器官が観測結果を感じる前に波束の収縮が起 こっていればよいとする説は説得力を失うであろう。そのような説は人間の意 識というやっかいなものを排除することにより、保守的な科学的手法を用いた 議論が行えるという意味で保守的な態度であると言える。しかし、そのような 保守的な手法で観測問題のような困難かつ原理的な問題が解決できるのであろ うか?

このように考えてくると、量子力学における観測問題の理解には、人間の意識、 あるいは人間の意識を可能にしている脳の働きの科学的な理解が重要だと思え るのである。人間の意識の科学的解明と観測問題は密接に関係すると思われる。 そう考えてくると、多世界解釈は自然に見えてくるのである。

多世界解釈はその発想の奇抜さから、受け付けない人も多い。常識的にみてば かげているようにさえ見える。また、そんなに観測と無関係の世界を考えるこ とに意味があるのかと考える人も多い。確かに、この解釈が正しいか間違って いるかを証明する手立てがない以上、そのような意見に反証することはできな い。

しかし、コペンハーゲン解釈もかなり奇妙な解釈である。そこでは、人間の意 識というものが世界の法則をつかさどっている。この解釈では、人間の意識は 自然現象に作用するものとして存在するのである。

どちらが自然な解釈であると思うかは人により異なっている。ある人は世界が たくさん存在するようなことは極めて不自然であると考えるし、またある人は 神秘的な意識の作用を持ち出すのは極めて不自然であると考える。

多世界を不自然だと思う心は、そんな世界はこれまでの経験から有り得ない、 というものであろう。しかし、そのような経験はできないということこそ多世 界解釈の述べているところであるから、そのような、多世界解釈が不自然だと 思う心が生じるのは当然だということになる。そういう心は見せかけの不自然 さなのであり、多世界は神秘的な意識の作用を排除した結果出てきた自然な解 釈である。コペンハーゲン解釈はそのような見せかけの不自然さを見せかけだ と認識せずに多世界の出現を排除して、神秘的な意識の作用を持ち出してきた のである。

また、多世界解釈では、なぜ、物理量の固有関数の振幅の二乗がその物理量の 測定値の確率と解釈できるのかをより基本的ところから導くことができる。こ れは非自明なことであり、多世界解釈が自然な解釈であるということを支持し ている。

だが、観測不可能な多世界を考えることに意味があるのか、という批判には、 しかり、という面もある。観測可能性というものは科学理論にとって重要なも のであり、観測不可能なものを考えてもそれは科学理論としてテストはできな い。テスト不可能な科学理論は科学の理論としては意味がないのである。この 基本姿勢によりここまで科学は進歩してきたのである。だから、多世界を考え ることによりはじめて解決できるようなテスト可能な問題があれば別だが、い まのところ、多世界解釈は「解釈」であって、科学理論ではない。もちろん、 この点はコペンハーゲン解釈もそうである。

コペンハーゲン解釈には重大な問題がある。すなわち、この世の意識というも のは自分一人だけが持っているものではないということである。あらゆる人間 あるいは動物にも意識があるのである。すると、ある人にとって波束が収束し ていても、他の人にはまだ収束していない、という事態をどう受け止めるかが 問題である。(これは、ウィグナーの友人という有名なパラドックスに代表さ れる) コペンハーゲン解釈にとって見ればこれは重大な問題である。私の意 識が作用して定まった世界と、あなたの意識が作用して定まった世界とどちら が本当の世界なのであろうか? これに答えを出すことはできない。強引に出 そうとすれば、あなたか私のどちらかが基本的な意識であり、他方は世界を定 めることのできない意識なのである、ということになるだろう。だが、多世界 解釈においてはこれは問題ではない。すなわち、私にとってみればあなたも自 然現象なのであって、あなたは量子力学的な重ね合わせの状態にありうるので ある。逆にあなたにとってみれば私は自然現象なのであって、私のほうが量子 力学的な重ね合わせの状態にありうるのである。そして、私の認識している世 界は全体のごくごく一部の世界であって、また、あなたの認識している世界も 私とほぼ共通してはいるがまた違った一部の世界なのである。これは、世界の 存在自身が各観測者によって相対的な意味しかないことを示している。この世 の中におこる現象は現象そのものとして完全に人間によって観測することがで きるものではなく、人間の意識とその現象との相互作用でしかない。したがっ て、人間の意識が自然現象を完全にとらえきれるものではないという考え方は 自然であろう。

このように考えてくると多世界解釈という名前は適当ではない。世界がたくさ んあるように記述されてしまうのは人間の認知能力に限界があるからである。 多世界なのではなくて、人間の認知できる世界がごく一部だけなのであるから 人間の見ている世界が部分世界なのである。

総合的に考えると多世界解釈は自然な「解釈」であるというのが私の私見とし ての結論である。ただし、人間の意識というものが完全に解明されない現在、 そのままの形で物理理論として成立するかどうかは断定できない。人間の意識 の量子力学的な定式化のようなものが必要であろうと思われる。

さて、通常の物理的な測定では観測者はすでに十分制御された初期条件のもと に実験を行う。したがって、シュレーディンガー方程式の初期条件を知ってお り、観測されるときの量子力学的状態も計算される。その状態から観測値の確 率分布を知ることができる。そして、実際の観測結果と比べる。ここには、両 者の解釈の違いはどこにも入り込まない。コペンハーゲン解釈では実際に「波 束が収束」し、多世界解釈では見かけ上「波束が収束」する。どちらにしても われわれが観測結果を得ることには変わりなく、予言される観測値の確率分布 も同じである。すなわち、両者のどちらが正しいかを決める手だてはない。

このような伝統的な量子力学的測定においては両者の解釈はまったく同じ予言 をするのである。というより、観測事実がまずあり、それを説明しようとして 量子力学ができて、つぎにその解釈ができたのであるから、もしその予言が異 なっていればその時点で間違っているほうが捨てられたのである。その一例は ベルの不等式とアスペの実験によって捨てられた局所的隠れた変数理論である。

このような伝統的な測定を超える実験、観測が行われることは将来期待できる であろう。特に、現代宇宙論においては、宇宙はもともと非常に小さかったの であり、宇宙の創世時には宇宙全体が量子力学の原理に支配されていたと考え られる。そこではこれまでのような測定される対象と測定を行う観測者がもは や区別されない。人間の意識は宇宙の一部であり、宇宙全体は少なくとも過去 には量子力学的に振る舞っていた。その理解にはここで述べたような観測問題 の正しい理解が必要不可欠である。現在観測できる宇宙のデータの中に、量子 力学の観測問題に対する糸口が含まれているかもしれない。特に宇宙の大規模 構造と呼ばれる、初期宇宙のゆらぎから直接でてきた構造に重要な情報が含ま れているかもしれない。なぜなら、そのゆらぎは初期宇宙の量子力学的不確定 性が産み出したと考えられていて、ミクロスコピックなダイナミクスが超マク ロスコピックな構造とリンクしているからである。


Takahiko Matsubara
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