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自分とはなにか

現代科学の考え方に慣れてしまうと、この世の中の現象はすべて物質的現 象であり、人間の精神さえもその範疇にあるものとみなされる傾向にある。こ れは科学の性質上やむを得ないことである。科学とは物質的現象についての合 理的な説明を追い求めるものであり、科学的理論は再現性のある実験や観測を 説明するものとして構成される。この科学の方向性から、人間の精神活動その ものも物質的現象としてとらえようとする動きは自然なものである。

だが、自分という精神活動は一体なんだろう、という疑念は物質的現象に 還元できるものであろうか。世の中に自分というものは一つしかなく、自分は 他人ではない。自分は他人ではなく、また他人が自分でないのはなぜか。自分 というものはこの世の中に一つしかなく、他人の人生を本当の意味で経験する ことはできない。世の中にたった一つの自分というこの存在感はどこから来る のであろうか。これは人間の脳の中を調べても分かるとは思われない。精神活 動が物質的現象であれば、自然の法則に従っているので、自分の主体性という ものはない。ところが、人間は主体的に行動することができる。その主体性は 見せかけであり、あらかじめ予定された行動を取っているだけであるという考 えもあるが、少なくとも主体的に行動できると信じている自分というものがあ る。明らかにその感覚の中ではまわりのものをコントロールできると思ってい る自分があるのである。精神活動も物質的現象であれば、自由意志と思ってい ることもすべて自然法則に従う現象となり、まわりのものをコントロールする ことは全くできない。それでも実際には我々は少なくとも感覚的にはまわりの ものをコントロールして生きている。この感覚はどこから来るのであろうか。

コントロールするということは何なのであろうか。これは因果関係の理解 に基づく行動である。因果関係は人間の論理的思考において重大な意味を持っ ている。結果は必ず原因の後にくる。つまり、ある現象が他の現象に影響を及 ぼすとすれば、それは必ず時間的に後の現象にのみ影響を及ぼせる。つまり、 未来の現象に対して、現在の自分の思考、またそれに基づく行動により、自分 の望む結果を得ることが(ある場合には)可能であり、これがコントロールす るという感覚を生む。

この因果律の理解には時間の感覚というものが付きまとっている。時間と は何だろうか。人間が感覚する物質的現象は、端的には、五感を通じて脳に伝 えられる電気信号である。その電気信号に対して脳は時間的順序を見い出す。 そして、その膨大な情報の間に関係を見い出す。これらはすべて脳が行なって いることである。脳がそのように情報を整理することにより人間の思考が生み 出される。脳のこの作用がなければ、これらの情報は何の意味もないままであ る。そこには時間による現象の順序づけなどすらない。

無論、そのような順序づけの素地は自然界にあったものであるが、必ずし もそのような順序づけは自然界に本質的なものではない。ある現象が起こらな かったらこの現象は起こらなかったであろう、という推論は人間が行なうもの であるが、実際にはその現象は両方とも起こっているのであり、どちらも起こ らなかった世界にはその人は住んではいないのである。

それにもかかわらず人間はそこに、ある場合には確信をもって、ある場合 には曖昧ながらも因果関係を見い出すことができる。これは、全く同じ状況の 下では同じ現象が起こるという自然界の普遍性から来る。この普遍性こそは我々 の理性的思考を可能にしている自然界の性質である。

つまり、人間は時間による順序づけという方法で自然界の現象を切り取っ て知覚し、そこに因果律を見い出し、論理的思考や判断を繰り返すことにより、 自分の行動が自然界の現象をコントロールするという感覚を得ている。そして、 おそらくはそれが自分の存在というものを感覚的に生み出しているのであろう。

そう考えてみると、人間に知覚されている自然界だけでは話が済まなくなっ てくる。宇宙は現在の宇宙のみならず、過去も未来もある。また、この我々の いる宇宙だけが唯一の宇宙とは限らない。その中で、一つの宇宙のごく限られ た時間の一点だけを感覚している自分というものはいささか不完全な知覚しか していない。人間の思考活動が自分というものの存在を感覚させる本当の理由 が、自分に知覚できる範囲内だけで理解できるとは思えないであろう。知覚の 範囲というものすらも問題の一部なのだから。この議論は必然的に不可知論へ と導かれてしまう。しかし、自分とはなにかという明らかな自己言及であるこ の問いが不可知論へ導かれるのは自然だとも言えなくもない。

2000年7月5日


Takahiko Matsubara
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